昭和五十一年八月八日 朝の御理解 第八節
「子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親の心じゃ。不信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けてくれよ。」と
信心しておかげを受けてくれよと、不信心者ほど神は可愛い。」ひとかどの信者、信心者と云われる様になる。金光様の御信心を頂いとります。だったらそれで屑の子でないかと、私は信心を頂ながらも我屑の子の自覚が先ずでけてくるところから、信心しておかげを受けてくれよと言われるおかげが頂けれる様になると思うね。
これはまあ、世の例えでありましてね、それは親の不憫が増すとね、一人前ではない頭が弱かったり又は体が弱かったりまあ色々で、あればある程親の不憫が増すのですけども、ここでは私はその親の不憫と云うことではなくて、いわゆる不信心者ほど神は可愛いね、なら信心をさせて貰うておると云うても、おかげを受けておると云うても只親のすねをかじっておると云う程度のおかげであるならば、わたしはそれは私こそ屑の子であったなと気が付かにゃいけんと思う。ここでおかげを受けてくれよと云うのはそういう意味じゃないと思うね。親が財産がある、その財産に依存しておる。もう分けて貰うのは当り前と云う様な私は子供は親に安心して貰えるとか、喜んで貰えると云うことではないと思う。信心をしておってもおかげを頂いておりますと云うだけの私は信者であっては先ずは神様に御心配ばかりをかけておると知らなければいけないと思う。
ここで信心しておかげを受けてくれよと云う、いわゆる信心を頂いておかげを受ける氏子にお取り立て頂くと云うことがこの御理解八節に対する、いやこういう教えを頂いてそれに応える信心だと思うです。金光様の信心を頂いとればもう神様が安心して下さると云うことではない。
してみるとお道の信心頂いとる者の中でも沢山神様にご心配ばかりをかけておると云う屑の子が殆どじゃなかろうかと云う風に思います。それは段々信心を進めて参ります。信心を進めていくことはいよいよ自分が分かることだと言われます。自分自身が分かっていく、分かれば分かる程自分の心の貧しさとか又は自分自身の神様に対するお粗末御無礼者であるという様なことが段々分かって参ります。いわゆるまあ心の不具者という様な自覚がでけてくる。
信心を頂いて天地書附けを基軸にしてという様な生き方を頂いておりますなら全ての事が和賀心、云うならば和わらいだ心で喜びの心で受けていけれる筈なんだけれども、なかなか心がその様な風には受け入れない。してみると自分の心の不具者であると云うことを感ずる様になる。ねえ、やはり自分の子供の中に不具者が居れば親が不憫を感じ憫は増すばかりね、ですから信心を頂いていけば頂いていく程我屑の子であるという自覚がでけて来てその自覚に立って、云うなら心が自由自在に使えれる稽古、自分の体が自由自在に自分の思うように使える時には健康の印である。自分の心が自由自在に有難い方に有難い方に全ての事を頂けれる様になった時が心が健全だと云うことになる。
ですからその反対に受けられないとかね、分かっちゃおれどもと云うわけで分かっておるけれどもそれがでけないと云う心の不完全さと云うことに気が付く時にです、我屑の子の自覚と云うものがでけてくる。そういう自覚が私はお道の信心の実意丁寧神信心と云う信心がでける時だと云う風に思います。
本当に私の様なと云うところにですね、実意丁寧に横着はしてはおられません、いわゆる地を低うせずにはおられません、相済みませんを心の中に何時も感じておるという様なところから拝む、教えを頂くいよいよ実意丁寧、いわゆる神信心がでけてくる様になるのです。そこからです、私はおかげを受けてくれよと云うおかげと云うのは頂けるもんだと思うのです。
只信心をしておる、お取次を頂いて日々まあ結構なおかげを頂いとりますと云う間はね、まあ云うならば親のすねをかじっとる様な信心だと云う風に頂くのが間違いがないうと思う。信心しておるから屑の子ではないと云うことではない。信心頂いておってもひとかどの信心、信者と思うておってもねえ、いわゆる神様のおかげをもう場合にはむしり取る様にして頂いておる様な場合がある。親に無理を言ってね、云うならお金をせびると云った様なことをあんまり変わらない様な信心ではいけないと云うことであります。
そこでです、私は神様から安心して貰えれる氏子、まあ神様から喜んで貰えれる信者をだから目指さなければならんのですが、どういうところに着眼してどういうところに焦点を置いて信心の稽古をさせて頂いたら神様に安心して頂けるかと云うことです。
御理解七節に天地日月の心になること肝要なりと教えておられますね。だから信心の一番肝要だと云うところ、まあ云うなればね、実際に親に喜んで貰うと親孝行はでけんのだけれども、どうなして親に孝行したい、親に喜んで貰いたいと云う願いを持つことだと云うことです。どうしたならば神様に安心して貰えれるだろうか、どうしたならば神様に喜んで頂くだろうね。そういう思いがですねえ、心から湧いて来る信心。そこで親の心が分からなければ親孝行はでけません様にねえ、親の心を分かろうとする努力がでけるのです。そこを教祖様はね、天地日月の心になること肝要だと。これはそのまま天地の親神様のお心であろう、そこで天地日月の心になることを願いとしての信心、ね、こういうおかげを頂かなければ、例えば商売をする人が商売大繁盛のおかげを頂かなければならない。体の弱い人がどうぞ健康のおかげを頂きたいと思う。だからそういう願いだけに終始しておるとするならばそれは神様に喜んで頂く氏子、又は安心して貰えれる氏子とは言えないことになるのです。
私共の難儀の様々な様相が一人一人に違いましょうが、ねえ、その難儀のことを取次願うと云うことはいけないことではないですけども、その根本になるもの、私がこんなに体が弱かっては私が日々こんなにお金に不自由しておってはねえ、親に心配をかける。神様に喜んで頂く御用ひとつでけない、ね、だからおかげが頂きたい。為にはどういう信心をさせて頂いたならと云うことになってくる。そのどういう信心をさせて頂いたならと云う信心者に対してね、天地日月の心になること肝要だと教えられた訳ですねえ。
おかげを受けたい、健康になりたい、お金にも不自由せん様なおかげを頂きたい。不自由しておったんでは神様に喜んで頂くこともでけんし、体が弱かっては親に心配をかける。だから健康にならせて下さい、どうぞ財のおかげを頂かせて下さい。まあ人間関係の悩みならばそういう悩みが解決する様にお願いをすると云うのですけれども、もうひとつの向こうにある根本のところを踏んまえての願いにならなければならないと云うこと。
親に喜んで頂きたい、安心して貰いたい、その親に喜んで貰いたいと云う様な一心が立つ時にこの喜びがそのまま私共の上に現れてくる。それが信心の喜びなんです。ね、神様にお願いをしておかげを頂いた。いわゆる御祈念が成就した。そこで喜びと云うのはそりゃ本当の喜びじゃないね。神様の喜びがこちらに返って来る、それが喜びなんです。信心の喜びと云うのはそれなんですねえ。まあ大きなおかげを頂きたい。そんならやはり大きな心にならせて頂くことを願いとしなければならない。その大きな心にならせて頂きたいという願いこそが神様の喜びなんです。大きなおかげが頂きたいと云うのは、ありゃ欲の強い奴じゃと云うだけの事、ねえ。大きなおかげが頂きたい為にはどうぞ私を大きくならせて下さい、太くならせて下さい、豊にならせて下さいと云う願い。だから太くなる為には大きくなる為にはね、そんなら天地の心を分かり日月の心を分かって、天地日月の心になることが肝要だぞと教えられるねえ。だからその天地日月の心になることの研究と云うか天地日月の心が分かったらそれに応えると云うかね。そういう信心を目指して頂く時にです、もうこの氏子は大丈夫と親が安心してくれる時であり、神様が安心して下さる時である。
その安心が私共に返って来る。それを安心の大みかげと云うのです。神様に喜んで頂く様なと云うその神様の喜びがこちらへ返って来る。それが信心の喜びであると云うのですね。ああお願いしとりましたらこげな不思議なおかげを頂きました。こげな奇跡的なおかげを頂いて有難い。成程有難かろうけれどもそれは神様にとってたいした喜びではないね。信心しておかげを受けてくれよと云うのは、信心しておかげを受けた時に神様の心が安らぐのであり、安心が生まれて来るのであり、そこに私共にその喜びが又安心が返って来る。ね、信心しておかげを受けてくれ、だからこの信心してと云うところがです、只お参りしよります、拝みよります。そして毎日結構なおかげを頂いておりますと云うだけではねえ、本当なことではないと云うことです。ねえ、実意丁寧な神信心をさして貰う。それは自分自身がギリギリ分からせてから打ち込み始めて屑の子の自覚がでけてくる。そこから実意丁寧な神信心がでけるようになる。その実意丁寧神信心を以て今度はその信心の目的を天地日月の心にと云うことになる。そこで天の心とは、地の心とは日月の心とはとそれを追求していくと云う生き方。もう信心はここに極まったと云う生き方が身に付いた時にもうこの氏子は大丈夫だと神様が安心して下さる時であり又そういう信心をしておかげを受けた時初めて神様の喜びである時だと云うことです。だからここのところの根本のところをおいての信心は、ここで言われる信心しておかげを頂いて、受けてくれよと云う信心ではないということ。屑の子が不憫であるとね、 そこで云うなら不信心者ほど神は可愛いというその不信心者が信心者になると云うこと。
信心者になると云うことはお道の信心を頂いとれば信心者かと云うと、さにあらず、ねえ本当のおかげの頂けれる信心に出た時本当のおかげの頂けれる道が分かったとき初めて本当の意味においての信心者と云うことが言えれる。
ですからその道を辿らせて頂けばね、天地に満るみ恵を充分に頂き止めていくことがでけるという信心者の上に神様が喜び又は安心して下さるその喜びが私共に返って来る。その安心が私共に返って来る。喜び安心の生活がでける様になった時初めて神様のお心をお休めすることがでけると云う風に思います。
本当の親孝行と云うのはやはり親孝行がしとうてたまらんと云う心を持った人が親孝行だと私は思う。親孝行はせにゃならんと思うとるだけじゃつまらん。親孝行はしようごとしてたまらん。どうかして親に安心して貰いたい、喜んで貰いたいと云うそこにはねえ、私は親からせびる様な心は起きてこないと思う。むごう言うちから親からね、貰うた分が得と云う様な考え方では親孝行ではない。親の心が分かりその心に添うていこうと精進することが、いわば親孝行であるように、神様の心が分かってその神様の心に本気で添い奉りたいと云う心願が起きた時に初めてね、真の信者の誕生ということになるのじゃないでしょうかねえ。そして、なら親の心が分かるために教えを拝聴する。そしてその思いに添い奉る精進又は修行をさせて頂くねえ。そこから信心しておかげを受けてくれよというおかげが頂けて来る。そういうおかげを受けた時に初めて神様に喜んで頂く信者、いや金光様の御信者だと言える時だと云う風に思います。信心しとります、おかげを受けとりますと云うのは、まあ不信心者の中だということです。ねえ、神様に云うならば無理を言うたりすねをかじっとる程度の子供だと悟らにゃいけませんねえ。神様に云うならば喜んで頂ける様なおかげを頂くために神様の心が分かり、心に添い奉ろうという願いを立てるところから信心しておかげを受けてくれよと云うおかげが頂ける様になると思うですね。どうぞ。